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6月25日
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(6月28日文章訂正)

朝日新聞の朝刊に連載されている小説、

乙川優三郎氏の「麗しき果実」について。

 

小説の舞台は、江戸時代後期の江戸。

琳派の絵師、酒井抱一や鈴木其一を

あたかも生きているかのように描いている。

初めから読んでいたわけではないので、

誤解もあるかもしれないが、

私の大好きな抱一の貶め方がひどい。

抱一の多くの作品を其一が描いたものに

抱一の落款を押したもの、ということが

小説の中で、ことさらに強調されている。

 

乙川氏が、抱一と其一のことについて、

どのくらい調べられたのか知らない。

また、私もこの二人の関係に詳しくはない。

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私は10回近く、抱一の作品の展示されている展示会には足を運び、図録も買って様々な解説に目を通しているつもりだ。

抱一の晩年は世間的にも成功し、(今でいう)ブランドと化し、

日用雑貨のデザインなどにも手を染め、名を貸し、工房は多くの職人の集まるデザイン請負会社のようになっていたことはどこかで読んだと思う。

抱一筆と記される、いくつかの作品は、工房の他の誰かの筆によるものが混在していることは間違いないだろう。

 

しかし、真作とされる抱一と其一の二人の作品には、私の眼には決定的な造形力の違いがあり、抱一にあって其一にないその点が

まるで認識されていないような乙川氏の小説に、「これが美術史として、広まっていいのか!」と毎朝新聞に向かって怒っているのである。

 

私は、抱一の作品の美しさは、豊かで洗練された曲線美を湛える造形と、大胆かつ無駄のない構成力、詩的な世界観にあると感じている。

この要素をもつ作品を創り得た作家は歴史のなかでも数えるほどしかいないと思い、私はこの力をこそ、いつか我が物にできたらと長年願い続けている。

申し訳ないが、其一の作品にこれらの要素は感じられなく、真面目すぎるゆえに融通の効かない硬直化したものの捉え方が、いたるところに散見される。

見間違うはずもない。それら其一の問題点は長年、私自身が自分の弱点として克服したいと願っているものに他ならないのだ。

花を描き始めたら、つい上から下まできっちり描いてしまうのが、其一のみならず真面目といわれる硬直的なものの見方をもつ人々の捉え方だが、

抱一は、不要な部分は(常識では考えられない)突然湧いた雲のなかに消えさせるなどして大胆に省く。詩情を優先するアイディアで、

絶妙な構成、配色のバランスを可能にする。それらのどこをとっても、常識的な其一に抱一の代表作の代作ができるとは、私にはとても思えない。

 

それを乙川氏は、抱一をまるで権威の椅子に安住し、弟子の成果を自分の名で世に出して憚らないどこかの大学教授のような扱いで描いている。

だれか美術史家が背後にブレインとしてついているのかもしれないが、それでもなお私は断言する。其一に抱一の傑作を代作する能力はないよ、と。

 

また氏の小説からは、抱一が恵まれた存在で、其一が丁稚から這い上がっているという同情が強調されているが、抱一の画家としての人生も

順風満帆だったわけではない。武家に生まれた抱一は、実質33歳になるまで、画業に専念できなかった。

むしろ武家制度の堅苦しい制約の下で生きるなかで、俳句や能、絵の世界への憧れを強めていったことが、結果としては

45〜65歳の全盛期を生み出すことになったのだと想像するのだが、それはただ環境が恵まれていただけで生み出されるものじゃないはずだ。

そうしたことに触れることなく、大成した抱一を権威の象徴として描くだけなのは、(抱一ファンの私としては)どうにも納得がいかない。